鉄道ものがたり

軍隊の移動と物資の輸送を担う鉄道建設は日本の近代化にとって重要なものでした。その方針の下、更に山梨県内の物資を東京に運ぶ目的もあって、中央線はまず明治22年(1889)に新宿、立川間が開通しました。立川駅・国分寺駅・武蔵境駅・中野駅はこのときに開業しました。国分寺駅ができたのは地元の有志の熱心な誘致があったからと伝えられています。 武蔵小金井駅は大正13年(1924)玉川上水の桜を楽しむ人々のために仮乗車場として開業、国立駅は大正15年(1926)学園都市建設のため、西国分寺駅は昭和48年(1973)に開業しました。ところで下河原線という路線があったことを覚えていますか。国分寺駅から東京競馬場前駅までの旅客線と、競馬場前駅の少し手前から分岐していた下河原駅までの貨物線からなっていた中央線の支線です。多摩川の砂利を運搬する目的で「東京砂利鉄道」として1910年に開業しました。その後1921年にいったん廃止されましたが1933年東京競馬場が開設されたことから、そのアクセスのために旅客線として再開されました。 武蔵野線が開業された時、その機能を武蔵野線に譲る形で1973年再度廃止されました。

爆弾で出来た野川公園の池

戦時中末期、東京が空襲を受けてた頃、硫黄島から東京空襲の為に飛び立ったアメリカ軍の飛行機は、まず東京湾を目指したそうです。都内の目的地に爆弾を落とした飛行機は荒川が見えると、進路を富士山の方に変えて、立川の軍需工場を破壊します。その後、目的を果たした飛行機は小金井上空辺りで帰路につく訳です。帰りも1000km程飛ばなければなりません。従って、重い物は捨てて行く為に、最後の目標である調布飛行場周辺に残った爆弾を皆落として行きました。その名残が、野川公園に見られます。公園内の自然観察園にはいくつかの池があります。この池が、当時落とされた爆弾によってできた爆弾池として、当時子供達の格好の遊び場となった事はあまり知られて無いようです。

銃からロケットへ

東京経済大学と早稲田実業学校は、戦前、大倉財閥系の南部銃製造所という兵器工場でした。戦後、一部は大倉喜八郎創設の大倉高等商業学校(東京経済大学)の敷地となり(1946年)、一部は新中央工業となりました。1955年 ここで、工学博士の糸川英夫が日本初のロケット発射実験を行いました。
超小型のものを水平に飛ばすというもので、 ペンシルロケットと呼ばれました。
その実験成果はアメリカNASAの宇宙開発にも利用されています。 

3億円事件

1968年12月10日、府中市内で電機メーカーのボーナスが奪われる事件が発生しました。国分寺駅北口にあった金融機関から電機メーカーへ運ぶ途中の現金輸送車が白バイ警察官に扮した犯人に騙されて現金ごと車が盗まれました。武蔵国分寺跡の一角で犯人は現金輸送車から乗用車に現金を積み替え、更にその乗用車を小金井市本町の団地に乗り捨てました。犯人は未だに捕まっていません。

国分寺・小金井ゆかりの作家こぼれ話

1950年発表の大岡昇平の『武蔵野夫人』は東京西部の武蔵野の”はけ”を舞台にした恋愛小説。1951年には田中絹代主演で東宝で映画化され、戦後を代表するベストセラーとなりました。 『ノルウェイの森』の小説家村上春樹が、1974年早稲田大学在学中に、国分寺にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店(店名はむかし飼っていた猫の名前)1977年に千駄ヶ谷に移転。その後は店を友人に譲り小説家業に専念。同時期に登場しいずれも人気作家となった村上龍は、学生時代、村上春樹の経営する「ピーター・キャット」に通って、デビュー前からの顔見知りであったようです。
『野球狂の詩』『ドカベン』などの野球漫画家水島 新司は、1970年代、東京都小金井市の音楽喫茶「白鳥」に通い、執筆や構想を練るなどに費やしていました。 『野球狂の詩』のヒロイン・水原勇気は、その名前を決めるのに思案し、喫茶店マスターの娘「ユウキ」という名が気に入りもらったそうです。

今の国分寺・小金井

高度成長期に開発と宅地化の波に襲われ都心のベットタウンとなっています。しかし、他の地域に比べれば、はけの雑木林や農地、史跡のおかげで、緑と花に恵まれた街となっており、今なお残る農家の屋敷林が更に緑を豊かにしています。 それでも年々緑が減って宅地化が進んでいます。 小金井市は長年かけて野川の自然を取り戻し、はけの森も指定緑地として保護するようになりました。国分寺市では武蔵国分寺跡周辺を除き、立ち遅れているようです。中央線沿線に広大な敷地を持っていた鉄道学園跡地は、マンション群と、武蔵国分寺公園となりました。 武蔵小金井駅では南口再開発も完了し、大きく様変わりしました。国分寺も長年計画されていた北口再開発が、いよいよスタートして、大きな変革期を迎えているようです。