中世の小金井 小金井神社と貫井神社 

旧小金井村の鎮守である小金井神社は1205年創建、 菅原道真公を祭り天満宮と称したのが始まりといわれます。 旧貫井村の鎮守貫井神社の創建は1590年と伝えられ、かつては貫井弁財天と呼ばれていました。 雨乞いすると、必ず雨が降ると言い伝えられています。

近世の国分寺・小金井 新田開発で村おこし

江戸時代玉川上水の開削と新田開発の奨励により武蔵野の原野の開墾が進みました。 玉川上水の分水路も整備されて、村の数もずいぶんと増えました。 ただ、 大規模な台地上のため稲作は難しく、村々は貧乏だったといいます。 農作物は麦・芋・穀が栽培されていました。 旧小金井村の栗は将軍への献上品でした。
新田開発は武蔵野の平坦地に畑や雑木林を出現させました。また大農家の屋敷林も整備されましたが、崖線は斜面地の為耕作には適さず、雑木林として薪や堆肥の材料を得る場所として残されました。崖線周辺に豊富な緑が残されているのはそのためです。

小金井村献上栗

国分寺や小金井は、江戸まで距離があったため、鮮度が求められない麦・雑穀・瓜などを作っていました。新小金井駅近くの武蔵野新田などでは、儲かる作物を育てたいということで栗を栽培し幕府に献上し、将軍が食べた栗としてブランド化して売りました。農民の新しい仕事であり、農業技術の研修に使われていたようです。戦後はスイカ作りが盛んになりました。 これは昔府中で献上瓜を栽培していた技術を学んだのかもしれません。

幕末以後の国分寺・小金井 養蚕にはげむ

国分寺・小金井の養蚕は、江戸時代の終わりごろから農家の副業として始まりました。これは、盛んに養蚕がおこなわれていた八王子の影響があったようです。明治、大正、昭和初期がピークで、世界恐慌によって日本の主要輸出品であった生糸が輸出できなくなり下火になりました。この地域では、桑の苗の生産も盛んで、霜に強く葉の大きなものなど品種改良も行っていました。桑苗が、中央線を利用して全国に販売されました。この頃の名残として農家には養蚕に因む屋号が今でも残っています。
1901年には小金井南部の崖線上の台地に鴨下製糸糸工場が開業し、さらに周辺の村々の養蚕への意欲をかきたてました。野麦峠の世界が小金井にもあったのでしょうか。

中央鉄道教習所

国分寺には鉄道職員のための学校がありました。
鉄道省による「東京鉄道教習所」として開設され、戦後国鉄による「中央鉄道教習所」に受け継がれました。構内にはSLを走らせる設備もあり、広大な敷地を持っていましたが、国鉄民営化の際に処分され、その一部が現在の都立武蔵国分寺公園となりました。



崖線上際は金持ちの別荘地

鉄道が開通し便が良くなったこと、 また、 西欧の影響からの別荘ライフの流行を受けて、 明治末 ~昭和初期にかけて中央線沿線に多くの別荘が建てられました。 富士山を望む崖線の高台や、緑と清涼な湧水の存在も建設に拍車をかけました。 殿ヶ谷戸庭園(旧岩崎別邸) ・日立中央研究所 (旧今村別荘)・ 滄浪泉園(旧波多野別邸)などはその代表的なものです。 殿ヶ谷戸庭園は南満州鉄道副総裁江口定條が大正2年に建て、その後三菱財閥岩崎家の手に移り整備されたもので、 崖線の高低差を利用した和洋折衷の回遊式庭園です。1970年に商業ビルに建て替えられそうになったとき、市民の反対運動によって都が買い上げ都立公園になりました。また、2011年には国の名勝に指定されました。



滄浪泉園も同様で、崖線を利用した回遊式庭園と、マンション建設から逃れて都立公園となった経緯はよく似ています。明治・大正期に三井銀行などの役員を歴任した波多野承五郎によって造られました。日立中央研究所は、今村銀行頭取、今村繁三の別荘で今村別荘仮楽園といいました。大正7年につくられ園内には農園もあり、 国分寺市内で初めてトマトを栽培した場所と言われています。

野川と橋

江戸時代の国分寺や小金井の野川流域は、 水田地帯でした。国分寺市内の記録では江戸時代には3つの橋が野川に架かっていました。そのうちのひとつが石橋(不動橋)です。 橋の維持には費用が多くかかるので、たくさんの橋を架けるわけにはいかず、重要な場所にしか橋は架けられませんでした。昔、 酔った男が丸木橋と大蛇を間違えて、 大蛇を踏んでしまって、 大慌てで逃げ出したという話が残っています。現在では数多くの橋が架けられ、交通の便は格段によくなっています。国分寺では洪水対策を施した橋が多く、小金井では野川遊歩道設置に伴い整備され、野川流域散策を楽しい
ものにしています。

小金井に変わった名前の坂が多い

主なものは西から「鞍骨坂」:かつて切立つような赤土の崖で、雨の日には人も馬も滑って歩けなかったといい、鞍(馬)でも骨を折るというところからつけられた。「平太坂」:平太夫という人の家の脇の坂なので。「質屋坂」:脇の家が一時質屋を営んでたから。「白伝坊の坂」:白伝という僧が住み着き農家を托鉢に回ったのが由来。「中念坂」:中念という人名または僧の名と言われている。「むじな坂」:獣のムジナが通る人を驚かせたから。「二枚橋の坂」:庄屋の息子と山守の娘が野川に身を投げ、その霊が大蛇に化けて幻の橋となって人々を惑わしたため、これを哀れみ大木を引き割り二枚並んだ橋を作って供養した。それぞれ謂れを探ると面白いはなしが多く、興味がつきません。

野川流域の自然 蛍が見られる 

国分寺や小金井では、以前水辺に多くの自然が残っていて、蛍が飛び交う姿が見られましたが、開発が進み人口が増えるに従って、その姿が見られなくなりました。その復活を願う人々の活動によって蛍が戻りつつあります。お鷹の道=清水川流域、野川沿い、野川公園自然観察園などで6月末の夜に見ることができます。鳥の種類も多く、サギ、カモ、カワセミなどの水辺の鳥類に加えオオタカの生息も確認されています。四季折々の花は散策をより楽しくしてくれます。特に野川沿いの枝垂れ桜や金蔵院の白萩などが有名。子どもたちはザリガニや小魚捕りに興じています。