国分寺崖線って何? 太古の国分寺・小金井

今から13万年前から7万年前の間氷期に、多摩川が青梅を要とする扇状地を形成しました。5万年前から1万年前にかけて氷期となり、海面が今より100mも下がり多摩川の流れが急になると、 大地を削り崖を造っていきました。 これが国分寺崖線で、 高低差は最大で20m、 武蔵村山付近から世田谷(等々力渓谷)まで約25Kmに及ぶグリーンベルトを形成しています。"はけ"は崖線下の湧水により崖が削られ窪地状となっている場所を指す言葉で谷戸(やと又はやち)とも呼ばれています。崖線からは随所に水が湧き出し、 真姿の池周辺の湧水群は全国環境庁( 現環境省 )の名水百選に選ばれています。

国分寺・小金井に縄文時代の遺跡が多い訳

国分寺崖線の上は見晴らしがよく、 かつ、水害もなく、狩りの対象である小動物もたくさんいるため、狩をして暮らしていた原始の人々にとっては絶好の居住地でした。 際の地中50cmから3m下に旧石器時代(3万5千年前~1万2千年前)の遺跡が存在します。
縄文時代(1万2千年前~2千300年前)の最盛期である縄文中期(5千年前~4千年前)の集落跡が崖線上に多く残っています。主な遺跡は多喜窪遺跡・武蔵台遺跡・恋ヶ窪遺跡・はけのうえ遺跡などです。 また、 武蔵台遺跡やはけのうえ遺跡には当時の居住跡が保存されています。

弥生時代から中世にかけては原野の時代

弥生時代から古代 ・ 中世(2千年前~450年前)にかけては、 国分寺 ・小金井はほとんど原野でした。開発が進まなかった訳は崖線からの湧水は冷たすぎて稲作には適さなかったため。縄文時代に住んでいた人々は稲作に適した多摩川に近い地域に移ってしまったようで、その後も開発は進みませんでしたが、中世には野川流域にいくつかの村がありました。

武蔵国府と武蔵国分寺 二つをつなぐ東山道

大化の改新後、天皇を中心とする国家体制確立の一環として全国の国を畿内5カ国と七道(7つの行政区)に分けそれぞれに国府が設けられました。府中本町駅近くに国府に関連する遺構が発見されたことは記憶に新しいところです。武蔵国分寺は府中国府に近く、北関東に通ずる東山道沿いに創建されました。天平13年(741)聖武天皇の命により国家鎮護を祈願して全国に建てられた国分寺の一つです。

<small>武蔵国分寺跡資料館提供</small>武蔵国分寺は昭和31年以降の発掘調査によって寺域が明らかになり、諸国分寺の中で有数の規模であることがわかりました。 現在、 金堂・講堂・中門・七重塔・鐘楼・その他の遺構が確認されています。 また、七重塔については、遺構が2ヵ所発見されており、 焼失後再建の七重塔の位置をめぐって研究が続けられています。

  真姿の池

武蔵国分寺に近く、名水百選に選ばれた国分寺崖線下の湧水群のひとつです。古来より霊験あらたかな池として大事にされてきました 。池にまつわる伝説もあります。 
【伝説1 玉造小町の伝説】
848年 、 病に苦しんだ玉造小町が、 病気平癒を祈願しに国分寺を訪れました。 21日間の参詣の後 、一人の童子が小町の前に現れ、池に案内し沐浴を勧め、姿を消しました。
小町がその通りにすると病は消え元の美しい姿に戻ることができました。そのことから、池は病を治し健康な身体になれる、つまり真の姿になれるということで、真姿の池と名付けられました。 
【伝説2 雷王石の伝説】
国分寺の教心というお坊様のもとに伊豆国の浦島と名乗る男が弁天様の使いとして現れました。「金光明経七の巻にある四雷王の文字を書いて人に授ければ、雷の災いやいろいろな災難を払うことができる。」と言うと浦島は部屋から出て行いきました。教心が後から付いていくと浦島は池のほとりにある弁天様の祠に姿を消しました。 教心があたりを見まわすと祠の前にある石が光っています。 近寄ると石の表面に四雷王の文字が見えました。この石は雷王石と呼ばれ人々の信仰を集めていましたが、後の世の心ない者が汚したため、池の中に沈んでしまいました。 

東山道武蔵路

大化の改新後、 都と地方の国府を結ぶ道路が整備されました。 これを七道と呼びますが、 東山道はその 一つであり都と東国を結んでいます。 東山道が上野国 ( 現在の群馬県 )から分岐して武蔵国に至る道路を東山道武蔵路といい、 近年旧鉄道学園跡地の開発や、第4小移転で遺構が発見されました。 国策で造られたため、 道路は直線で、 巾12m、 側溝なども整備された大道路でしたが、 政治的な意味がなくなると使われなくなり、 いつのまにか消滅しました。 道路は人の通行や、 物資の運搬だけではなく国の力を示すためにも造られました。

伝鎌倉街道と姿見の池悲恋伝説

鎌倉時代に鎌倉と上野国・信濃国方面を結ぶ主要道路でした。
東山道よりだいぶ道は狭く、 国分寺崖線を切り通しにしています。この時代、 恋ヶ窪は宿場町で、 遊郭もあったと伝えられています。 姿見の池は、その水面に遊女が姿を映し見たことから名づけられたといいます。 遊女 夙妻太夫と武将畠山重忠との悲恋の伝説なども生まれました。

武蔵国分寺炎上と薬師堂建立

鎌倉時代の武蔵国分寺は鎌倉幕府による諸国国分寺の修理命令などを受けて、 規模は不明ですが存続していたと思われます。 後醍醐天皇の倒幕の命を受けて上野国の新田義貞が鎌倉を攻めた時の、分倍河原の戦いで、戦火により焼失しました。鎌倉幕府滅亡後、 新田義貞が多額の寄進をして1334年に金堂跡に建立したのが薬師堂です。 約 430年後(1751~1763)現在の位置に建て替えられました。

お鷹の道由来 

国分寺村周辺は、 江戸時代中期から尾張徳川家のお鷹場となっていました。 鷹狩は行われていませんでしたが鷹の飼育や訓練なども行っていたようです。 また、 鷹の餌の小鳥や、その小鳥の為の青虫を納めなくてはなりませんでした。 他にも、 農作物を荒らす猪や鹿を駆除したり、 案山子や鳴子を設置する事や、 お祭りなど大きな音を出す時もすべて許可をもらう必要があるなど多くの制約を課せられていました。お鷹場は明治維新直前に廃止されましたが、明治時代にも宮内省が外交官の狩猟場にするという話がでました。その時に住民が反対運動をして中止させました。 真姿の池湧水群から流れる元町用水(清水川)沿いに遊歩道が整されていますが、お鷹場であったことに因んで “お鷹の道" と名づけられました。

不動橋由来

橋のすぐ近くに 「不動明王 」と刻まれた石があります。 これに因み橋の愛称募集のときに不動橋と名付けられました。かなり昔からある橋で、以前は石橋でした。 旧国分寺村の集落の入り口にあたり1832年に橋が架け替えられ、石橋供養塔が建てられました。石橋供養塔は災いが村に進入しないように多くの人が踏みつける石橋を供養することで防ごうと建立したものです。 同じ場所に庚申塔が置かれています。 庚申塔というのは庚申の日(60日ごとに1回)に人間の体内から三尸(さんしん) という三匹の虫が寝ている間に抜け出して、その人の犯した罪を天帝に報告し 、 報告されると人は早死にしてしまうという道教(どうきょう)の教えから、庚申の日に徹夜して三尸が体内から抜け出さないようにする行事のことです。
庚申待を三年連続して行うと、塔を造立して記念としました。
また、ここは野川と元町用水(清水川)の合流地で、1913年の用水堰の記念碑が建てられました。

薬師如来ご開帳

薬師堂のご本尊である薬師如来像は、平安時代末から鎌倉時代初期の製作と考えられます。 薬師如来は秘仏で、 江戸時代は30~33年に一度、人々に公開されました。お堂の修理をするための費用を集めるために江戸( 浅草寺、市ヶ谷八幡宮、愛宕山)に運び開帳しました。また国分寺でのご開帳は、江戸から曲馬団を呼ぶなどして、 観光 ・ 娯楽を兼ねて盛大に行われました。 現在では、毎年10月10日に薬師堂でご開帳されます。

八十八札所巡りと石仏群

国分寺薬師堂周辺の雑木林の中に四国八十八札所巡りのミニチュアがつくられていました。富士山など有名な信仰場のミニチュアを造ることは江戸時代の流行でした。観光・娯楽にもなり、かつ信仰心も満足させることができました。 国分寺では石仏が置かれ、これを巡ることによって四国八十八札所巡りと同様の霊験を得られると、考えました。

石仏が散逸しはじめたことから、現在では薬師堂の裏手にまとめて石仏を安置・保存しています。