分倍河原合戦

元弘3(1333)年、府中・分倍河原において、鎌倉幕府に不満を抱く勢力を糾合して上野国(現群馬県)で挙兵した新田義貞率いる軍勢と、鎌倉幕府の軍とが激戦を繰り広げました。武蔵国は相模国に次いで幕府にとって重要な国であり、その中心拠点であった府中は、北条氏の命運を左右する土地でした。ここでの敗戦から間もなく鎌倉幕府は滅亡しました。天平以来の武蔵国分寺の伽藍もこの時の合戦で焼失したといわれています。後に義貞は寄進をして国分寺金堂跡に薬師堂を建立たと伝えられ、現在の国分寺薬師堂(写真④)はその後身とされています。また、府中の分梅通り(旧鎌倉街道「陣街道」)沿いに建てられた古戦場碑(写真⑱)は、当時、合戦が行われたと思われる場所の一角に、近代になって設置されたものです。

室町・戦国時代の府中・国分寺

鎌倉幕府滅亡後、京都に室町幕府を開いた足利尊氏ですが、鎌倉幕府以来の武士の都であった鎌倉も東国の重要拠点として位置づけ、鎌倉府という政庁を置き足利一族の鎌倉公方と補佐役・関東管領上杉氏を配しました。しかし、両者の権力の座をめぐる対立が激化、さらに上杉氏内部の分裂と抗争が関東の戦乱に拍車をかける結果となりました。府中市内中心部の発掘調査では、15世紀末頃のものとみられる地下式坑と呼ばれる遺構や、財産と思われる貴重な品物を埋めて隠したような遺構が多数みつかっており、これらは人々が合戦から逃げ隠れたり、大事なものを奪われないように隠した遺構ではないかとみられます。その後足利氏や上杉氏は小田原北条氏に駆逐されて勢力を失いました。北条氏の本拠は小田原でしたが、現在の府中・国分寺の市域は小田原城の支城である江戸城と滝山城・八王子城の支配領域の境目付近に位置していたようです。武蔵総社六所宮は北条氏康や江戸城代の遠山氏から寄進や庇護を受け、高安寺も課税の棟別銭を北条氏康・氏照親子から免除されるなど、府中の社寺は北条氏から大切にされて優遇を受けていました。

徳川家康と府中

北条氏から武蔵国支配を受け継いだ徳川家康は、六所宮近くの見晴らしの良い場所に(古代の国司館と同じ場所)府中御殿を建てました。豊臣秀吉の奥州平定の帰路の休憩所目的でしたが、鷹狩りなどでも使用しました。その後、家康の遺骸を日光東照宮に運ぶ折は霊柩が安置されました。生前、家康は府中の馬市で求めた馬のおかげで大坂の陣(一説には関ケ原合戦)に勝てたと、けやき並木の両側に馬場を寄付したといいます。そのとき定めた「馬市の法」が制札として鳥居前に掲げられていました。その制札には、「馬市が開けるのは5月3日の競駒(こまくらべ)から9月晦日までの間」定められていました。競駒はくらやみ祭りとして知られる六所宮の大祭の一神事です。

甲州道中(甲州街道)と府中宿

家康は江戸城を築くと、すぐさま甲州道中(甲州街道)を敷設しました。これは江戸の防衛拠点となる甲府と北条氏の拠点のひとつであった八王子、そして江戸とを結ぶ領内交通網の整備でした。その甲州道中の宿場として慶長7(1602)年に府中宿が開かれました。府中宿は当初3宿(番場宿、本町、新宿)からなり、のちに東側に八幡宿ができて「四カ町」と呼ばれ賑わいました。それまで領内幹線道路といえば東山道武蔵路や鎌倉街道で、いずれも【南北】をつなぐ道路でしたが、甲州道中は【東西】に走る道路です。以来、多摩では江戸と繋がる東西への意識が強まり、慶長8年に家康が征夷大将軍に任じられると甲州道中の重要度は格段に高まりました。くらやみ祭り当夜、神輿が一夜を明かして翌日大國魂神社に帰っていく御旅所(写真⑫)などは当時のまちの様子を彷彿とさせてくれます。この御旅所は、庶民に禁令や法令を知らせるため板に墨書し掲示した高札場でもありました。府中宿の賑わいは明治になっても続き、明治天皇行幸時に利用された明治天皇行在所や、明治21年に建てられた薬局・旧島田家住宅(写真⑯)などは郷土の森博物館に移築・保存されています。

府中陣屋と徳川家への献上品

府中には府中御殿のほかに陣屋(代官所)が置かれていました。その陣屋の主な役目は、①多摩川の鮎を捕らえて生きたまま江戸城に運ぶ玉川御川狩、②古来より多摩は馬の産地であり、府中でもけやき並木で馬市が開かれていましたが、その府中馬市にかかわる御馬買上、③真桑瓜を献上する御前栽などでした。

江戸時代の府中と国分寺

この時代の府中と国分寺の関係は、単なる宿場町と周辺農村というものではなく、国分寺が宿場町府中を支える関係にありました。府中宿内には将軍へ献上する真桑瓜(まくわうり)を栽培する御瓜田がありました。その瓜の栽培・献上のため、栽培に必要な肥料や畑囲いの材料、出荷時のかごや檜葉などのほか、農作業や運搬の人手までも近在の村が負担しなければなりませんでした。府中宿を含め、その村数は33ヵ村。現在の府中市、国立市、調布市、国分寺市、小金井市、武蔵野市などの村でした。国分寺市内は国分寺村と恋ヶ窪村で、年貢とは別に村人の負担になりました。しかし、これは最先端の栽培技術を学べる好機でもあり、実際、江戸時代の終わりごろになると、瓜が国分寺村の特産品となっていました。助郷という制度でも、国分寺の村々は府中を支えていました。宿場には、公用の旅人や荷物を次の宿場まで運搬する馬と人足を常駐させる義務がありました。府中宿にも馬25匹、人足25人が義務づけられていましたが、緊急時の対応として宿場で用意 する馬・人足以外に周辺の村が人足と馬を補助しなければならず、現在の府中市内、国立市内、多摩市内、国分にある府中周辺20ヵ村がこれに対応していました。また、天保9(1838)年に書かれた府中組合の「農間余業寺市内(農民の商業活動)」を見ると、府中宿には質屋7軒、煮売り29軒、髪結6軒、湯屋3軒、荒物瀬戸物2軒のほかさまざまな商売が行われていたのが分かる一方、恋ヶ窪村には居酒屋1軒、 菓子打卸1軒、 国分寺村には古着屋2軒、 菓子打卸1軒、穀商売1軒、 升小売酒1軒、本多新田には菓子類1軒、古着屋1軒、升小売り1軒しかなく、国分寺の村々では生活に密着した商売屋しかなかったようです。

新田開発と川崎平右衛門

江戸時代の初期から中期にかけて農業技術や土木技術が進歩し、それまで耕地にならなかった河川敷や荒れ地も開墾して農地面積を増やす新田開発が行われるようになりました。享保7(1722)年に8代将軍吉宗が「新田開発奨励の令」を発すると、多摩でも一斉に開墾が行われ、国分寺村と恋ヶ窪村だけだった国分寺市内に、本多新田、戸倉新田、内藤新田、野中新田六左衛門組、榎戸新田、平兵衛新田、中藤新田、上谷保新田と8つの新田が開発されました。この新田開発に大きく貢献したのが府中押立村の名主・川崎平右衛門でした。元文4(1739)年に南北武蔵野新田世話役を拝命した平右衛門は、退散農民の立ち帰り策として救援米支給、出百姓の生活安定のための公共事業実施、公金の貸し付け、土地に適した栽培品の選択指導など大胆かつ実状に即した数々の施策をとって新田開発を成功に導きました。ちなみに、玉川上水小金井堤に桜を植えたのも平右衛門でした。また、多摩川の左岸、日野橋下流から取水され、府中崖線からの豊かな湧水を合わせ約30haの田畑をうるおして再び多摩川へと戻っていく府中用水が開削されたのもこの頃のことで、この府中用水は今も使われています。

江戸の観光地 府中・国分寺・小金井 大田南畝の足跡

府中の鮎漁や小金井の桜などが『江戸名所図会』にも登場しているように、江戸の人々にとって府中や小金井はちょっとした観光地でした。江戸中期の文人として知られている大田南畝(蜀山人)も何度か府中・国分寺を訪れ紀行文を書いています。10代の終わりごろのそれには、牛込御徒町を徒歩で出発してから国分寺から六所宮を訪れ、府中宿の宿「四人部屋」に泊まったときの様子などが語られています。60歳を迎えようとするころ南畝は再び府中・国分寺を訪れ、このときは国分寺 薬師堂から恋ヶ窪村に向かい、東福寺、一葉の松などを眺めて府中番場宿に投宿。数日後に府中六社の馬場を出て、国分寺村、本田(本多)新田、野中新田、廻り田新田などを通って貫井橋、小金井橋あたりまで足を伸ばして桜を見物しています。また、天保の改革で知られる老中水野忠邦もおもな幕閣を従えて騎馬で府中・国分寺を訪れ、多摩川での鮎漁を楽しみ、大國魂神社・国分寺薬師堂を参詣した記録が残っています。

国分寺別荘時代 今も庭園として市民を癒してくれる

大正期になると、東京の裕福な商人たちが競って郊外に別荘を設けました。同じころ甲武鉄道(現JR中央線)など交通事情が好転した国分寺村でも別荘開発が進みました。おもだったところだけでも豊原別荘(東戸倉)、渡辺別荘(東恋ヶ窪)、江口別荘(現殿ヶ谷戸庭園)、天野別荘、竹尾別荘、宇都野別荘(東元町)、今村別荘(現日立製作所中央研究所)などをあげることができます。

府中・国分寺 鉄道物語 JR中央線、京王線、下河原線

都市化の進行にあたって大きな役割を果たしたのは鉄道でした。甲武鉄道(現JR中央線)が、明治22(1989)年4月にまず新宿-立川間が開通。4か月後には八王子まで延びました。開設当初の駅は、新宿、中野、境、国分寺、立川、八王子。計画段階では国分寺ではなく小金井に駅がつくられる予定でしたが、小柳九一郎らが駅用地を寄付することで誘致に成功、国分寺駅が誕生しました。小金井の桜見物の人々などで国分寺駅は大いに賑わい、取り残されることを心配した府中町は、国分寺村に出資を申し出て、国分寺-府中間に乗り合い馬車を通すため道路の一部(現在の国分寺街道のやや西側)拡張整備を実施したという<small>下河原緑道</small>ような話も残っています。その府中に鉄道が敷かれたのは大正5(1916)年。新宿から小刻みに路線を延ばしていた京王電気鉄道(現京王線)がようやく府中まで開通しました。これに先立ち、明治43(1910)年に、多摩川の砂利運搬のため国分寺駅から多摩川近く(現在の京王線中河原駅あたり)に延びる東京砂利鉄道が開業。20年ほど稼働したあと営業廃止されていましたが、昭和8(1933)年の東京競馬場開設を機に東京競馬場前駅を新設し乗客線として営業を再開。これが下河原線です。国分寺から東京競馬場前間はその後昭和48(1973)年4月に開業した武蔵野線に編入されましたが、3年後には正式に廃止されました。廃止後の跡地は下河原緑道(写真右)として整備され、現在は遊歩道として親しまれています。

地域に残るこぼれ話あれこれ

【 真姿の池 】
玉造小町という美しい女性が病気にかかり、国分寺の薬師如来に祈りました。現れた薬師如来の使いに「この池の水で身体を洗えば病気が治る」と言われ、言われたとおり体を洗うとたちまち病気が治ったとことから真姿の池と呼ぶようになった   そんな言い伝えが国分寺に残っています。
【 姿見の池 】 かつて姿見の池は、絶え間なく流れ込む湧水や恋ヶ窪用水の水をたたえてました。この池があった恋ヶ窪村は鎌倉街道の宿場の1つで、遊女たちが朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことがその名前の由来といわれています。周辺の開発が進み涸れてしまい一時期は埋め立てられていましたが、平成10年、東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」 として整備され、かつての姿が再生されています。

【 安養寺の化狸 】
昔、等海僧正という高僧のもとに、正体を隠して仕えていた狸の弟子がいました。ひょんなことから正体を知られてしまった狸は、引きとめる等海に「人間に化けて3000年、ご恩返しに2000年前お釈迦様に8年間仕えて教えを受けたことを実現しますので、明日人見が原に来てください。ただし何があっても合掌せぬように」と言い残して去っていきました。翌日、等海らが人見が原に行くと、浅間山あたりに周囲を七宝瑠璃で飾ったお釈迦様の座した多宝塔が四方に輝き現れました。等海たちが約束を忘れて思わず
合掌すると、目前の仏の世界はたちどころに消えてしまったということです。この狸が等海と別れる際に、3000年間仏の教えを書きとめた書を残していきました。この書は、今も安養寺の寺宝として残されています。

【 3億円事件 】
いわゆる「3億円事件」が起きたのは昭和43(1968年)暮れの早朝のこと。国分寺市内の銀行から東芝府中に従業員のボーナス約3億円を運ぶ途中、府中刑務所わきでその3億円が強奪されました。国分寺・府中を舞台に起こったこの事件は、懸命の捜査にもかかわらず7年後には公訴時効、20年後には民事時効も成立して、日本犯罪史に残る未解決事件となってしまいました。

歴史にいろどられた府中最大の祭り くらやみ祭り

【編集後記】
府中~国分寺の南北ラインを扱ったぶらぶらマップ第4号です。古代よりきわめて濃い歴史の存する地域であるため歴史主体の散歩マップとなりましたが、武蔵野の面影の残っている地域でもあり、過去・現在・未来を感じつつ散歩を楽しんでいただけたらと思っています。 マップの制作にあたり府中市ふるさと文化財課・国分寺市ふるさと文化財課・府中市郷土の森博物館および多くの府中市民・国分寺市民の方々にご協力をいただきました。お礼申し上げます。マップづくりはまだまだ継続します。国分寺モリタテ会の活動に興味がある方は下記までご連絡ください。 なを、マップのデータ利用をご希望される方はご連絡ください。
( 無断流用はお断りします)

価格:100円 
2013年2月発行  発行元 「 国分寺モリタテ会 」 FAX:042-323-8204
http://buraburamap.com/

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①鎌倉街道道切通し


②真姿の池


③東山道武蔵路跡


④国分寺薬師寺


⑤国分僧復元模型


⑥武蔵国分寺僧寺跡


⑦七重塔跡


⑧国分尼寺跡


⑨武蔵国分寺 参道口跡


⑩大國魂神社


⑪国衙跡


⑫御旅所


⑬坪宮


⑭高安寺山門


⑮御殿跡


⑯郷土の森博物館 島田薬局


⑰新田義貞像


⑱古戦場碑


⑲武蔵府中熊野神社古墳

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