多摩川がつくりだした国分寺・府中の地形 国分寺崖線と府中崖線(通称ハケ)

<small>国分寺崖線の緑</small>国分寺と府中のまちは、多摩川がつくり出した扇状地を基盤とする武蔵野台地の上にあります。北に位置する国分寺から府中のまち、そして多摩川まで南に視線を移動させてみると、そこには2つの河岸段丘が形成されていることが分かります。まず、武蔵野段丘上にある国分寺のまちは国分寺駅の南側あたりを西から東に伸びる国分寺崖線を境に一段低くなります。 一段低くなった一帯は、いわゆる立川段丘上に位置し、府中のまちへと続いています。そのまま南下すると、府中市街地南の府中崖線でさらに一段下がり、多摩川へと続いています。こうした地形は、大きく変化してきた地球の気候とその影響を受けた多摩川の流れなどによって形成されました。国分寺崖線、府中崖線ともに周辺の地形に注意しながら歩いてみればその位置はすぐに分かります。周囲の市街地化が進んでしまった府中崖線にくらべ、今も雑木林や農地、庭園施設などとして残っている国分寺崖線のほうがハケの様子をよりうかがい知ることができます。そのうちのひとつ
真姿池湧水群(写真②)は名水100選に選ばれています。

縄文・弥生時代の府中・国分寺

<small>武蔵台遺跡</small>武蔵野台地には、3万年前に遡る旧石器時代から人が住んでいたことが分かっています。国分寺市内でも熊の郷遺跡などで石器や調理用に使われてた礫などが発見され、石器を使った狩猟中心の暮らしぶりがうかがえます。府中市内でも当時の遺跡がいくつも発掘されていますが、府中市北西部から国分寺南西部にかけて広がる武蔵台・多摩蘭坂遺跡群(写真右)で発見された石器は、武蔵野台地で確認されたもっとも古い石器群として注目されています。1万2千年ほど前に始まる縄文時代には、国分寺崖線に沿って小金井・世田谷地区をへて多摩川へと合流する野川沿いに多くの人が住んでいました。この流域から多くの遺跡が発見され、全国でも有数の後期旧石器時代・縄文時代の遺跡密集地となっています。国分寺市内では多喜窪遺跡恋ヶ窪遺跡などがよく知られ、縄文時代早期や中期の集落跡が発見されています。縄文時代の終わり頃から弥生時代になると、大陸での動乱の影響に加え、気候が寒冷化し木の実などの食糧が乏しくなって自給の必要に迫られた人々は農耕へと向かい、各地で水田が開かれました。
しかし、当時国分寺で水田がつくられた形跡はなく、弥生時代の遺跡は発見されていません。崖線からの湧水が冷たすぎて稲作に適さなかったためと考えられています。府中市でも弥生時代の遺跡発見は少なく、平成10(1998)年から始まった東京競馬場内の発掘調査で初めて弥生時代の遺跡がみつかりました。とはいえそこでも水田跡が確認されたわけではなく、府中で当時、稲作が行われたかどうかもいまだ謎のままです。ただ、競馬場内の遺跡からは、水田稲作技術とともに九州から全国に広がったといわれる遠賀川系土器が出土しています。 弥生文化伝播の指標とされるこの土器がみつかったことから、府中でも水田開発が行われた可能性もあります。

古墳時代から武蔵国誕生へ 武蔵府中熊野神社古墳の謎

多摩川に沿って下流域から府中近辺の中流域まで、数多くの古墳が発掘されています。いわゆる古墳時代(3~7世紀)に築かれた古墳群です。府中市内でも府中崖線沿いに展開する白糸台古墳や高倉古墳などが知られていますが、とりわけ注目すべきものが武蔵府中熊野神社古墳(写真⑲)です。誰の墓かは分かっていませんが、この古墳は国内に数例しかない上円下方墳という珍しい形式で、しかも近隣に例のない規模と強固な葺石のつくりで、当時最高の土木技術を駆使して建造されています。それは、ここに葬られた人物が第一級の有力者であったことを示し、同時に律令国家成立前夜に東国の有力者がこの地を拠点としていたことを物語っています。大化の改新(645年)以降、中央集権国家を目指した大和朝廷は701(大宝元)年に大宝律令を制定。全国を60あまりの国に分けて各国に国府を置きました。現在の東京都や埼玉県の大部分と神奈川県の川崎市・横浜市のほとんどが武蔵国として編成され、府中にその国府が置かれました。
なぜ、地理的にも文化的にも異なる地域がまとめられ、なぜ、その国府が府中に置かれたのか。その理由は、武蔵府中熊野神社古墳に葬られたこの地域の有力者が朝廷との強いつながりを持っており、その子孫が国府造営にも深くかかわったためかもしれません。

国府・東山道・国分寺が古代地方行政の三点セット

古代、武蔵国においては、国府・東山道・国分寺は三点セットとして地方行政の基幹となっていました。国府には、中央から派遣された国司が政治を執り行うための中枢施設である国庁があり、その周囲に行政事務を行う国衙(写真⑪)がありました。さらに国衙の周囲には国司の館や兵士の宿舎、市、学校、農民の民家などが広がっていました。おそらく多摩郡の郡家も近くにあったことでしょう。武蔵国府は、近年発掘調査が進み全体のイメージが明らかになってきました。府中大國魂神社東隣に整備された武蔵国府跡(国衙地区)を訪れると、国府の中枢施設の様子をうかがい知ることができます。平成21年、JR府中本町駅東側一体の発掘調査から奈良時代の国司館跡が発見されました。これは全国的に例のない「品」(コの字)型の古代の官衙建物群で、きわめて重要な遺跡の発見とされています。そして、同じ場所から近世の府中御殿の遺構(写真⑮)も発見されました。東山道は都から放射状にのびる7つの官道の1つです。(他は東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)朝廷はこの官道に沿った複数の国をまとめた行政ブロ<small>東山道武蔵路発掘調査</small>ックで中央集権的な地方支配体制を維持しようとしていました。これが「七道制」で、武蔵国は近江-美濃-飛騨-信濃-上野-武蔵-下野-陸奥からなる東山道に属していました。武蔵国へ向かう官道は、上野国(現群馬県)から南下するルートで東山道武蔵路と呼ばれています。西国分寺地区の発掘調査では道幅約12m、長さ340mにもわたって確認され(写真③,右)原寸大で道路上に描かれた東山道武蔵路を目にすると、そのスケールの大きさが実感できま す。国分僧寺・尼寺の建立は、今から1300年前の奈良時代中期の 頃です。当時、伝染病の蔓延や地震 ・干ばつが続発し、社会が混乱しました。仏教の力を借りてそれを解決しようとした聖武天皇は、天平13年(741年)それぞれの国に国分僧寺・尼寺の建立を命じました。武蔵国分僧寺・尼寺は758年ごろに完成しました。国府から2.5Kmほど北、東山道武蔵路をはさんで東に僧寺・金光明四天王護国之寺、西には尼寺・法華滅罪之寺が建てられました。規模は東西1.5Km、南北1Km。その中に僧寺と尼寺それぞれの伽藍と金堂や七重塔(写真⑤⑥⑦⑧)など重要な建造物があり、これは諸国国分寺の中では特筆すべき規模でした。国府と国分寺の往来には東山道武蔵路が利用されていたと思われていましたが、近年、国分僧寺から南に500mほどの地点で、国内初の武蔵国分寺参道口跡(写真⑨)が発掘されました(平成17年に国の史跡に指定)。そこには国分僧寺と尼寺へと分かれる分岐点があり、また南方向へ延びる道は現在の府中刑務所や農工大あたりを経由して武蔵国衙に至っていることが判明しました。

大國魂神社 (武蔵国総社六所宮)

社伝によると景行41(111)年以来、この地の護神とされていた大國魂神社(写真⑩)の御祭神は大國魂大神でした。古代には国そのものに霊魂があると信じられ、国土を神格化して國魂神といっていたようです。その神に奉仕していた国造を祀る坪宮(写真⑬)と大國魂神社の関係は現代に至っても深いものがあります。国府が置かれてからは国司がすべての祭祀を執り行うようになり、平安時代後期になると国衙近くに近隣諸神を合祀した「総社」が置かれました。武蔵国では大國魂神社が総社とされ、武蔵国の主だった6つの神社(多摩市・小野神社、あきる野市・二宮神社、さいたま市・氷川神社、秩父市・秩父神社、埼玉県神川町・金鑽神社、横浜市・杉山神社)の分霊が祀られて、大國魂神社は武蔵国総社六所宮と呼ばれるようになりました。なお近年の発掘調査の成果によって、現在の大國魂神社の境内地が奈良・平安時代の武蔵国衙跡の西半分と重なっていることが明らかになり、国衙衰退後に総社の境内地として今日まで継承されたことが推測されています。

大國魂神社の“しめ縄”の不思議

神社のしめ縄は「天子南面(天子は南を向いて座る)」という理由から、参詣者から見て右側(日が出る方角=上位)が太く、左側が細いのが普通です。ところが、大國魂神社の拝殿のしめ縄は、左右が反対になっています。 一説には、本来南向きだった神社を、ある時期に北向きにしたから、といわれていますが、 拝殿以外のしめ縄はどれも向かって右側が太い! ちょっとした不思議です。

武蔵国府の変化と武士の誕生

律令体制の下では朝廷から派遣された国司がその国の政治を取り仕切っていましたが、9世紀末~10世紀には受領国司(徴税権・軍事権を含む一国の権限すべてを掌握した国司)の制度に変わり、11世紀になると<small>馬場大門けやき並木</small>その受領国司すら任国に赴任しなくなりました。受領に代わって国衙実務を担当したのが地方の有力者=在庁官人でした。この在庁官人が、武蔵国においては総社に祀られた6つの神社とそれぞれ密接にかかわっていたため、なおのこと国府における総社六所宮の役割は大きかったといえます。武蔵国府はその景観が平安時代後期に大きく様変わりしました。奈良時代以来の国衙が衰退したのち、それまで南向きだった武蔵総社六所宮が北方の陸奥・出羽国に向かって北向きに変えられたのは、11世紀中頃の源頼義・義家親子による改造といわれています。国衙の政治機構も大きく変化しました。また、この時代は耕地開発が大規模に進んだ大開発時代でもありました。開発耕地のうち公領は国衙領、私領は荘園と呼ばれ(荘園・公領制)、公地公民という律令時代の一元的な制度とはちがう新たな制度のなかで登場し、私領を拡大してきた有力な在地領主たちこそが「武士」だったのです。古代から中世へ、貴族社会から武士社会への転換期のただ中、貴族社会を震撼させ、同時に将来の武士社会到来を予感させるような出来事がぼっ発しました。それが”平将門の乱”です。武蔵国府もその舞台になりました。当時、<small>源義家像</small>武蔵国では朝廷から派遣された官人と地方豪族出身の官人が一触即発の対立関係にありました。前者が受領国司・興世王と源経基らであり、後者が郡司・武蔵武芝らでした。下総国の有力者であった将門は武芝側に立って紛争調停に乗り出しましたが、結果は失敗。しかも、その後は坂東諸国の国府との抗争へとエスカレートし、常陸・下野・上野の国府を襲って国印を奪いました。天慶2(939)年には将門みずからが”新皇”と称して下総国に王城を造ると宣言するに至りました。 将門の反逆に対し、 藤原秀郷や平貞盛ら坂東の強者が対抗し、 将門を討ち取って乱はようやく収束しました。高安寺(写真⑭)は、後に室町幕府将軍の足利尊氏が国と人々の平安を願って全国に建てた安国寺のひとつですが、その前身といわれる見性寺は、平将門の乱の後に武蔵守に任ぜられた藤原秀郷が創建した寺とされ、敷地は秀郷の館跡とも伝えられ、境内には秀郷を祀った秀郷稲荷があります。また宮西町にある称名寺の敷地は将門の反逆を朝廷に上奏した武蔵国介・源経基の館跡といわれています。平安時代後期には陸奥・出羽国で地方豪族の反乱、前九年・後三年の役が続き源頼義・義家親子が現地に赴きましたが、大國魂神社参道のけやき並木は頼義・義家が戦勝を祈念し、また生還の御礼として、けやきの苗木を寄進したのが始まりと言われています。(写真右)

鎌倉街道

12世紀末に源頼朝が鎌倉を拠点とする武家政権を確立し、その後、鎌倉幕府としての体制が整えられていく中で、鎌倉と各地を結ぶ鎌倉街道が整備されていきました。鎌倉街道は1本ではなく「上道」、「中道」、「下道」などがありました。武蔵府中、恋ヶ窪を通っていたのは「上道」で、鎌倉から境川沿いに北上し多摩丘陵を越えて府中へと延び、さらに比企丘陵を抜けて群馬県に続いていました。現在も、府中・国分寺では旧鎌倉街道の遺構を多く目にすることができ、武蔵国分尼寺跡北側に残る切通しの道(写真①)はその代表的なものです。当時の府中は国府以来の武蔵国の政治的な中心地として、また多摩川の渡河点となる交通の要衝として、さらには広く武蔵国の人々からの信仰を集める武蔵総社六所宮が鎮座する町として、引き続き幕府の重要な拠点となっていました。国分寺市恋ヶ窪付近は、ちょうど多摩市関戸方面から北上する鎌倉街道と稲城市大丸方面から府中中心部を経て北上する鎌倉街道の2本の鎌倉街道が合流する場所にあたるので、南に位置する関戸、東に位置する人見とともに、恋ヶ窪には北側から府中に出入りする関所のような施設があったのではないかという説があります。また現在、府中の善明寺に安置されている鉄造阿弥陀仏座像は、建長5(1253)年の銘がある現存する国内最大の鉄仏で、いつの頃か国分寺の黒鐘谷から掘り出されたと伝えられており、鎌倉街道を行き来した相当有力な人物によって造立されたことが想像されます。鎌倉街道は武士だけでなく、商人、職人、僧侶などさまざまな人々が往来し、物資も運ばれる武蔵国を南北に縦断する大動脈といえる道でした。そしてその役割の重要性は鎌倉時代以降、江戸時代初めに至るまで続きました。

『府中~国分寺歴史散歩その1』
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①鎌倉街道道切通し


②真姿の池


③東山道武蔵路跡


④国分寺薬師寺


⑤国分僧復元模型


⑥武蔵国分寺僧寺跡


⑦七重塔跡


⑧国分尼寺跡


⑨武蔵国分寺 参道口跡


⑩大國魂神社


⑪国衙跡


⑫御旅所


⑬坪宮


⑭高安寺山門


⑮御殿跡


⑯郷土の森博物館 島田薬局


⑰新田義貞像


⑱古戦場碑


⑲武蔵府中熊野神社古墳

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